日記のようななにか

なにか書いたり書かなかったり

誠実であるという事

 

誠実な人間は誰からも好かれる。「誠実である」という事は、他人から受ける評価として最も価値があるものの一つではないか。
自分も出来ることなら誠実な人間になりたい。
しかし、自分は案外どういう状態の事を誠実と呼んでいたのか分からないという事に気付いた。
 
他人との約束を必ず守る事? ←ただ従属しているだけでは。奴隷が主人に誠実であるとはあまり聞かない。というか料理屋がもれなく誠実な人扱いになるのは悔しい(別にいいけど)
 
嘘をつかない事? ←誠実だと言われる人も恐らく必要に迫られれば嘘をつく。 でないと実社会でそんなにポンポン誠実な人が現れないはず。
 
という事を車乗りながら考えてた。
しばらくしてそもそも誠実とは相手を指す事だけじゃないよなとちょっと思いついた。
自分に誠実であるという事もあり得るなと。
最終的に
「対象の人(自分含む)の考えに敬意を払う」事が誠実であると言う事かなと思った。
 
敬意という言葉を使ったのは「対象者の考えを価値あるものだと認めるけど、必ずしもそれと同じ考えを自分も持つ必要はなく、ただ対象者がそういう考えに則って行動している」という事を把握している状態、もしくは把握しようと努力している状態の事を言いたかった。難しい言葉のボキャブラリーが無いから敬意と書いてみた。
 
これなら一個一個の注文に嘘なく応えるだけというファストフード店で1日1万回位繰り返される様な味気ない状態を誠実と呼ぶよりも少し前進した気がしないでもない。
 
自分に誠実に生きれば自分の考えの価値を認めると言う事になるのだろう。
今までは自分の考えなんて二束三文のガラクタだと思っていた。自分の考えにまともにとりあう価値なんてないと言うスタンスで生きてきた。こう考えて、自分は自分の発言に責任を持つ事を無意識に避けているんだなと気がついた。
よっしゃこれからは自分が思考をする事は金脈を掘りあてる過程なのだと思う事にしよう
とした所で結構元気になったのでまあこの結論でいいかなーと思う事にした。
「対象の人の考えに敬意を払う」。書いたからにはできるだけ実践したい。

しゃべるときのあれ

人間は動物の一種。ただ人間には言葉がある。
言葉が他の動物と人間を分かつ最大の要因だと思う。
動物も恐らくお互いが何を考えているかのコミュニケーションを取る事は出来る。しかしそれは「好き」「嫌い」「欲しい」「欲しくない」「怒っている」「喜んでいる」など簡単な感情を伝える事だけに限られる。
人間は言葉によってこれらと比較にならない複雑な意思伝達を可能とした。言葉によって分業も記録も可能になった。そもそも言葉が無ければ思考が出来ない。
ただ、忘れがちになってしまうのは、言葉が全てを解決するツールではないという事だ。
「好き」「嫌い」等の簡単な感情を伝えるにはむしろ言葉に頼ってはいけない。
相手の事が嫌いだと思いながら相手を褒めても全く伝わらない。本当は自信がないのに強気な言葉をいくら使っても透けてしまう。
言葉の力は絶大だが動物的な感情をくるんで隠しきれるものではない。
これを自分は本当によく忘れる。
思ってもない事を口にしてしまうのはロクな結果にならん。